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2016年6月25日(最終更新日2016年06月25日):

社会貢献

長野大、学生有志8人で熊本地震災害ボランティア。5月後半4泊5日。メンバーに少年野球の学生監督、東日本大震災経験の岩手県出身で東北高校総体陸上出場者も

長野大の学生有志が5月後半、熊本地震の災害ボランティアに参加した。18日に上田を出発し、4泊5日で2日間を実作業にあてた。参加を呼び掛けた佐久市出身の尾沼秀一さん、岩手県内陸の矢巾町出身で、津波で全壊した沿岸の親戚宅の支援のために物資を運び非常事態のさなかの被災地に入るなどの経験をした中田功大さんら4年生が呼び掛け、入学したての1年生まで計8人が参加。尾沼さんは野沢南高野球部の出身で長野大入学後は19歳の1年生のときから出身の少年野球チームの監督を引き受けている。東日本大震災発生時に不来方(こずかた)高の2年生だった中田さんはその後、陸上の4×100mリレーで岩手県高校総体を突破し東北大会に出場している。経験してきたスポーツと直接の関わりはないけれど、困っている人のためにできることをしたい一心で行動に踏み出した。

 

倒壊ブロック塀の片付けなどから実感「継続的な支援が必要」

 

熊本地震の本震があって少したった4月20日ごろだった。尾沼さんが学生自治会仲間の中田さんに「ボランティア、行くか」と切り出した。災害ボランティアは経験がなかったが気負いはなく、「困っている人がいるので助けたい。何かできることがあればという気持ちだった」と話す。「岩手県出身ということで(地震災害について)深く考えていると思うので」と、まず岩手出身の中田さんに相談したのは自然の成り行きだった。

 

熊本ボランティアを呼び掛けた中田さん(左)と尾沼さん

 

中田さんの実家は岩手県内陸の矢巾町。沿岸の山田町に母の実家があり、海岸線から約100メートルの家は津波で流され、基礎だけ残して跡形もなくなっていたという。親戚の間で犠牲者はなかったが、毎年のように遊びに行って思い出の詰まった祖父母の家が全壊し、地震発生から通信事情で音信不通の不安の日々が続いた。自衛隊などの力でようやく道路が開通し、インスタント麺や缶詰、日用品などの物資を積んで両親の車で沿岸に向かったのが地震発生から2週間後。そこで見た一面がれきの光景は「戦場か、見たことはないのですがなんか戦後みたいな光景だった」と話す。「東北の震災もやっと片付けが終わってこれから復興。そんな中で熊本で地震があって苦労している方々がいます。人手とかが絶対足りなくて、(東北と)同じような苦労が分かります。そこで自分たちがどうにか手助けできたら。尾沼さんに声を掛けてもらって、そこで恩返しができればと思いました」

 

大型連休中に行くことも考えられたが大勢のボランティアの参加があると予想され、長野大のメンバーはその時期に行くことを手控えた。尾沼さんたちが考えた通り連休後はボランティア参加希望者の数が大幅に減少していた。自治会仲間への呼び掛けで、男女で計8人が集まった。入学したての1年生も2人加わった。車2台に分乗し、およそ13時間かけて移動。4泊5日の計画で、現地で2日間の実作業を行った。体力のある男子学生は、がれき撤去のような力仕事で汗を流す覚悟ができていた。長野大のグループは2班に分かれた。うち1班に割り当てられた作業は熊本市の東区内の民家で倒壊したブロック塀の片付けだった。高齢の一人暮らしの世帯で、地震発生から1カ月が経過していたがどうすることもできずにいたという。

 

初日の現場のブロック塀は約20メートルの長さがあった。鹿児島や北九州の男性と一緒のグループで作業。「遠いところからよく来たね」とねぎらわれたという。自然と役割分担もできてきて、敷地の狭いところから塀の破片を出す人、台車に積む人、運んで仮置き場に置く人と手分けして作業を進めた。粉々になったブロックは土のう袋に詰めて運んだ。仮置き場まで約200メートルの上り坂。ボランティアセンターで貸し出された用具が土木用の一輪車でなく、荷物を運ぶ台車だった。走破性と積載物の保持力に劣り、手荒に押すと積み込んだブロックが転がり落ちてしまう。ゆっくりと根気よく運んだ。どれだけ往復したか数えていなかったが、午後もだいぶたって作業をやり切った。天候は崩れなかったが、その分暑さが厳しかった。「こっち(長野)とは違う湿気のある感じ。ちょっと動いただけでもすぐ汗が出てくる。暑かったよね」と尾沼さん。中田さんも「こまめに水分補給しないと倒れちゃうくらい暑かった。中には腰痛持ちもいて、その子たちは腰が痛いと言っていた」。女子学生中心のもう1班は別の現場で、食器棚などの家具が倒れて中の物が散乱した家の中の片付けをした。

 

2日目の現場も倒壊したブロック塀の片付け。およそ40メートルあった。長野大生4人に東京から来た女性が加わったという。ボランティアは食事等の接待を受けないことになっている。それでもボランティアをしてもらう被災者、まして高齢者であれば実際の気持ちとしてなかなかそれでは済まない。被災して不自由な中でボランティアのためにお茶菓子を用意したりすることがある。「何も受け取らないことになってますから」などと手を付けなかったら依頼者をがっかりさせることになってしまう。学生たちはお茶菓子をおいしそうにいただいてきた。作業開始時間が早かったこともあり、この現場のブロックも完全に片付けることができた。「ずっとこのままにしておくわけにはいかなかった。助かった」「一人暮らしで手がなく、本当に遠いところから来ていただいて助かりました」など、ねぎらいの言葉をもらった。お役に立てたという充実感があった。

 

5月後半の時点で大きな通り沿いは片付いていた様子だったが、「細い道を1本入ると雰囲気がまた全然違った」と中田さん。「ボランティアの力を必要としている人はたくさんいた。継続的な支援が必要と感じました」。尾沼さんもそう感じている。さらに中田さんは「津波と違って町が壊滅的になっている様子はなかったけれど、ご年配の人が住まわれていて他者からの何らかの力が必要という状況があった。表面は平静であっても心の中は傷ついている。そこのところの配慮は必要なのかな、と思いました」。1年生たちも頑張っていた。「社会福祉士になるために大学に入ってきた。災害ボランティアを通して今後の学びにしていきたいと考えたと思う。現場で学び、将来どういう資格を取って、どういう職場に就きたいというイメージにつながったと思う」と尾沼さん。ボランティアセンターでは地元社会福祉協議会の学生スタッフが頑張っていて、臨機応変に状況を把握して作業現場の割り振りなどを行っていた。そういう様子も刺激になった。長野大のメンバーはまた行きたいと望んでいる。「熊本だけでなく、東北もまだ困っている人がいると思う。熊本に行ったのはすごく大きな経験でしたし、時間が許せば行きたい気持ちはあります」と尾沼さん。

 

宮城の被災地海岸再生のために研究――中田功大さん(4年)

 

中田さんが岩手県で震災を経験したことと長野大で学んでいることは根っこの部分で深く関係している。環境ツーリズム学部の「里山再生学ゼミ」で学び、ゼミは高橋一秋准教授のもと被災地の木の種子から苗木を育て、津波で被害を受けた宮城県の防風林を再生する取り組みを続けている。通称「たねぷろじぇくと」という「被災地里山救済・地域性苗木生産プロジェクト」は経済団体などの支援も受けた研究で、新たに海岸に築いた堤防の陸側にかさ上げした土地に将来防風林となる苗木を植えている。苗木は被災地由来のコナラで宮城県内の山で拾ったドングリから育てる。長野県は長野大と上田市西塩田小学校、宮城県は白石市と沿岸の山元町の小学校で3年かけて育て、今年3月から山元町で植樹が始まった。海岸によくあるマツの防風林とは異なりコナラなどの広葉樹の防風林を育てる試みだ。中田さんは「本来であればアカマツなんかが一般的なんですけど、松枯れという被害もある。広葉樹だったらそうならない可能性があり、防風林に広葉樹を植えてみることも試してみる価値がある」と説明する。生育が早いとされ、山で採土した盛り土のかさ上げ地でもうまく育つか今後も研究が続く。

 

たねぷろじぇくとと並行して里山再生学ゼミでは国蝶指定のオオムラサキの研究も行っている。中田さんは少年のときから昆虫が好きで、オオムラサキの幼虫の飼育にも熱心に取り組んでいる。「準絶滅危惧種でエノキという木しか食べない。こういうものの大切さを子どもたちに伝えていけたら」と言い、コナラやエノキが茂る里山の保護と再生の大切さを強調する。進路としては環境教育に携わるか、行政など環境アセスメントの実施主体の依頼を受けて環境影響評価を行う知見や技術のある企業で働きたいと考えている。オオムラサキの研究は2年生の年に始まり1年目は生態の基礎研究、2年目は小屋を含む成育・飼育のための「バタフライガーデン」造りを研究。3年目の今年、順調に行けば真夏には成虫が羽ばたく。「2頭目が6月21日にさなぎになってくれた。あとは見守って彼らの力を信じたい」と話していた。

 

オオムラサキ(山梨県北杜市役所HPより)

 

東日本大震災は高校2年が終わるときだった。年度が改まった平成23年に岩手で陸上インターハイがあった。中田さんは不来方高で陸上部の短距離選手。地元インターハイを目指し、全国はならなかったが4×100mリレーの3走として岩手県大会を突破し、東北総体に進出した。「被災して1年たってこっち(上田)へ来て、まずは天気が良くて雨は降らないし、来る前は余震に悩まされていた。ここでは地震もほとんどなくて、暮らしていて本当に安心できました」と話す。この間長野でも神城断層地震のような内陸型地震が起こって被害が生じたが、それでもこの土地が安全に感じられた。

 

人づくり目指す少年野球監督――尾沼秀一さん(4年)

 

1年生の19歳のときに自分の育った少年野球チームで佐久市中込の「中央区少年野球」の監督を引き受けた尾沼さんは最初は3年の秋の大会が終わるまでと考えていたが、就職活動をしている4年生の今もチームをみている。最後と思って優勝を目指していた地域の秋季大会のサンキュー杯はベスト8だった。「これが集大成という思いで臨んで、2日目に残ることはできたけれど決勝まで行けなかった。自分としては非常に悔しい結果で終わりまして、直後は『これで終わったのかな』と思っていた。保護者にどのタイミングで(退任を)伝えようかと思っていたけれど、このままじゃ終われないという気持ちになった。就活で忙しくなることは分かっていたけれど、もう1年やろうと思った」。小学生のころ育ててもらったチームに恩返ししたい気持ちもあった。監督を引き受けたころの6年生が今は中学2年生。「野球やそれぞれの分野で頑張っている。もう1年、自分も頑張ろうかなと継続を決めました」

 

自分の指導をもう一度見直した。中学のころの部活の監督、高校野球の野沢南のときの恩師、他の少年野球のコーチなどに教えを乞うた。「あいさつはとにかくしっかりしなさい」。高校の恩師から受けたアドバイスを実践項目に据えた。「小学生なので、登下校で(地域を)歩く機会が多いので、すれ違った人にあいさつしなさい」と指導している。それと「感謝の気持ちを言葉にしなさい」ということ。「人間性の部分は本人たちの考えが変わらないと行動も変わらない。『言え』と言われたから行っているあいさつと、心の中からの『こんにちは』では違います。どう考え方を変えていくかが大事かと思っています」。そしてこうも言う。「おまえら、応援されたかったらやるべきことをしっかりやりなさい」。1月中旬に今の中学1年生の卒団式があった。「監督はじめコーチの方々にはお世話になりました。これからも野球を頑張ります」と子どもたちが言ってくれたという。「入ったときからすれば成長してくれたかなと思います」。指導の中では2泊3日の合宿も実施してみた。子どもを親から離すのが狙いのひとつだったという。家庭の中ではユニホームを洗濯してもらい、道具の管理も親にまかせきりにしたり。それが当たり前になって感謝の気持ちもとくにない。「そういう部分を教えたかった。『真っ黒になったユニホームを洗うのがどれだけ大変か、ありがたみをわかれ』。ユニホームは手で洗わせました」。合宿は大部屋で行い、布団の上げ下げからやってきた。最初のころは尾沼さんがチーム通信を発行していたが、ほどなくやめた。監督が保護者に伝える内容は子どもたちの口から家庭の中の話題にしてほしかった。「自分が保護者に発信すればいいんだというのは違うと気付いた」という。

 

標語にした「目指すチーム像」

 

尾沼さんは「中央区少年野球 目指すチーム像」として12カ条の心掛けを掲げている。中でも「日本一大きな声で挨拶」は大事にしている。野球の指導面では「前はガツガツ鍛えた方がいいと思ったけど、鍛え過ぎは良くないと思った。腕立て、筋トレとかは全然やっていないです。バッティングの中で動けば勝手に筋肉になる。その子に合った筋肉が付けばいいと思う。子どもたちの可能性は無限大にあると思います」。その可能性が花開くか。そして結果がついてくるかは指導者である自分次第と思って取り組んでいる。

 

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